大雀命は何故「仁徳」天皇か?
阿波古代史を御存知ない方には、珍紛漢紛かもしれないが、そこは検索などしていただくとして、話を進めることにする。
簡単に言えば、古事記の神話等初期の物語は、阿波国を中心とした四国の物語である、というのがその主旨である。
初耳の方には噴飯ものだろうが、それはあなたが何も知らないからである。高天原・出雲・天孫降臨、いずれの舞台も阿波徳島の話である。驚くほどの根拠のある話だ。
しかし、阿波古代史を研究する団体・個人が全て一致する見解を持っているわけではない。一致しない部分の一つが「遷都の時期」である。
たとえば、神武天皇の東征は阿波から畿内への話であるとする者もいる。
一方で『道は阿波より始まる』の著者・岩利大閑が説くように、文武天皇の御宇に畿内へ移った、という説がある。私は、疑問を持ちつつも、後追い研究により後者の信憑性を確信するに至った。
さて、私は常々、古代史を解明する観点として「経済」と「宗教」の視点は欠かせない、と言っている。記紀以前の歴史は、中国史で確認するしかなく、中国史は中国という国の成り立ちと皇帝制度を抜きに読むことは不可で、中国と蛮夷は主に「経済関係」で成り立っていたからだ。
では「宗教の視点」とは何か?
皇帝と蛮夷の関係は「経済的関係」であると同時に「宗教的関係」にあったのだ。
皇帝とは、日本の天皇とは違って「血の繋がり」は無関係の存在だ。
その観念は「天が“天下を治めるべき”と天命を下した天子」である。これは古代中国の宗教観念である。そして、このとき「天が天子を選ぶ基準」は、その人物の「徳」なのである。
この目に見えない「徳」を、目に見える形で臣民に証明してみせるのが「朝貢」儀式だった。朝貢は、する側にも大きなメリットがあるのだが、それは朝貢してもらいたい中国側が、その実現手段として提供する餌だった。
「皇帝の徳が高いほど、その徳は遠方にまで届く」という観念のもと「できるだけ遠方」の「できるだけ文化の高い国」からの朝貢が最上とされた。
こう書いても、日本人には、その「徳」の意味が理解できない。
日本人が言うところの「人徳」は、「人格」だとか「人間性」だとか、「いい人」「立派な人」どまりなのである。
では、今でも政治家諸氏などが不祥事の際よく使う「私の不徳の致すところ」とは何か? これは、元を辿れば、古代中国の宗教観なのだった。
私は、原初の神道は古代中国の宗教の影響を強く受けていると考えている。
いずれ別サイトで詳しく書くが、まだ「神道」という名もない古代日本の宗教は二千年以上前の古い儒教の影響を受けている。
日本固有の宗教である神道が、中国宗教の影響を受けているなど、保守的な人間は受け入れがたいだろうが、では仏教はどうなのか?
天皇家自ら受け入れ、神仏習合し、日本を代表する宗教となり現在に至るではないか。
何故、もっと国体も定まらぬ時代の原初の日本が、他国の宗教の影響を受けないと言えるのか?
神道は、原日本の宗教と古い(孔子以前の)儒教とのハイブリッド宗教である。
儒教の経典である五経の一つ『書経』に「洪範九疇」(こうはんきゅうちゅう)というものがある。
伝説の「夏」の「禹」が、天帝から授けられた天地の大法であり、その中の「庶徴」(しょちょう)に、自然現象は天子の政治に応じる、という教えがある。
例えば、天子の治世がよろしければ、雨も然るべきときに降り五穀豊穣となる。これを「休徴」(きゅうちょう)という。 治世が悪ければ、大雨・洪水・日照り・旱魃(かんばつ)など天災をもたらす。これを「咎徴」(きゅうちょう)という。
「雨の降り方」ひとつにも天子の政治が影響するというのである。
この教えは、前漢の時代には、董仲舒(とうちゆうじよ)の『春秋繁露』(しゅんじゅうはんろ)によって発展し、天(自然現象)と人(人事)とには対応関係があるとする「天人相関説」(てんじんそうかんせつ)が普遍化した。
君主が政治を乱せば、天は災いを下して譴責し、改めることがなければ異を下して威嚇し、それでも改めなければ天は遂にその国を滅ぼす、とされた。
国を治めるのは天子であるから、国を揺るがす天変地異に対して、皇帝はその原因を「自らの不徳の致すところ」とし、反省して減税したり、改元したりしたのである。
お気づきと思うが、日本においても古来、国家的凶事に際してその影響を断ち切るための災異改元というものが行われた。天皇の代替わりだけが改元のタイミングではなかったのである。
このように「徳」というものは、人間の品性・人格というものを超えた宗教的意味がある。 孔子以後、理論化され道徳的に理解されてゆく「徳」は、もともとは、天帝(中国における、万物を支配する天上の最高神)が人間に与えた自然と共存共栄するための法(のり)でもあった。
ここで思い出すのは、崇神天皇である。
五年、國內多疾疫、民有死亡者、且大半矣。
六年、百姓流離、或有背叛、其勢難以德治之。
是以、晨興夕惕、請罪神祇。 『日本書紀』
崇神天皇の治世五年、疫病が流行し、人民に多数の死亡者がでた。
紀によれば上記のように「大半」、記によれば「人民死爲盡」(死に尽きなむとす)と記されている。
翌年には、百姓は国を捨て、治世に反逆する者まで現れた。
その勢いは、天皇の徳をもってしても治めることができなかった。
天皇は朝夕、神祇に罪を請うた。
一般に最後は「天皇は朝夕天神地祗に祈った」と現代文化されるが、原文ではご覧の通り「請罪神祇」である。「いったい自分の何が悪かったのか」を「自分のどこに不徳があったのか」を神に訊いているのである。
儒教の「庶徴」である。
このように上古の日本は、すでに始皇帝以前、夏殷周からの儒教の教えがすでに浸透していた。
ここで話は振り出しに戻る。
四国から畿内へ遷都した時期について、私は白鳳時代だと上に書いたが、遷都の理由については研究者間でも一致しない。
私は以前からSNS等では「地震と津波」が原因と呟いている。
これに関しては「その程度で遷都は考えにくい」という意見もある。
私に言わせれば、その感想は「現代人の感覚で考えるから」である。
台風や地震、津波など、現代人はその発生のメカニズムを知っている。
古代の人々は全く違った。
まず、これらの自然災害を含み、疫病や理解不能な凶事は「祟り」だった。
これは現代人が思うような「迷信」だとかの類ではなく、当時の「現実」だった。
現代人は「祟る」というと「怨霊」を連想する。
菅原道真・平将門・崇徳院は、日本三大怨霊とされている。実際に怨霊となり祟をなしたか?は関係ない。残された人々が「そのように感じ」後に「神として祀った」ことが重要なのだ。
怨霊の怒りを沈めてもらうための唯一の手段が、神として丁寧にお祀りすることだった。では、神になれば現世に災いを為さないのか?
そんなことはない。崇神天皇の御世を掻き乱したのは「大物主」の神だった。
それが判明する前は「天照大神」と「倭大国魂神」がお怒りなのではないか?と考え、天皇はそれまでの祀り方を改めた。
それが、天皇ご自身の「不徳」なのでは?と考えたからだ。
つまり、「神は祟る」のである。
神は、お気に召さないことがあれば、この世に災いを為す。
しかし、不満を取り除いてくれれば、この世に幸為す。
「天人相関説」である。
これが日本の神の「荒魂」(あらみたま)・「和魂」(にぎみたま)である。
ここにも儒教の影が色濃く残る。
現実世界のあらゆる災禍は「神の怒り」「神の祟り」が原因で、国を揺るがす規模の災禍は「天子の不徳」によるものと認識していたのだ。
ここで、この白鳳時代に何が起こったか?
白鳳地震である。
天武天皇十三年冬十月
壬辰。逮于人定、大地震。
挙国男女叺唱、不知東西。則山崩河涌。諸国郡官舍及百姓倉屋。寺塔。神社。破壌之類、不可勝数。
由是人民及六畜多死傷之。
時伊予湯泉没而不出。土左国田苑五十余万頃。没為海。
古老曰。若是地動未曾有也。
是夕。有鳴声。如鼓聞于東方。
有人曰。伊豆嶋西北二面。自然増益三百余丈。更為一嶋。則如鼓音者。神造是嶋響也。
十一月
庚戌。土左国司言。大潮高騰。海水飄蕩。由是運調船多放失焉。
天武天皇十四年三月
是月。灰零於信濃国。草木皆枯焉。
夏四月丙子朔己卯。
日本書紀以外にも、愛媛・高知にはこの地震と津波による被害の記録が複数残っている。 ここで一つ不思議なことがある。
この地震は記録から分かる通り「南海トラフ巨大地震」である。当然、阿波国も甚大な被害を受けているはずである。
ところが、記録にその国名は登場せず、「伊予」「土佐」「紀伊」の被害報告と、伊豆の島隆起、信濃の火山灰の記録のみである。
これは奈良に都があったとすれば奇怪な記録だ。同程度の被害が紀伊半島全域で起きているはずだからだ。
これは、当時都の置かれた阿波国を中心とした記録ゆえに、その周囲の国名しか登場しないのである。
「寺塔 神社 破壌之類 不可勝数」とあるが、白鳳時代に創建された法起寺式伽藍配置の「郡里廃寺跡」(立光寺)もこの地震で崩壊したのだろう。
そして実は、この時代の地震は、この白鳳地震だけではないのである。ご覧頂きたい。
天武天皇四年十一月辛丑朔、是月、大地動、
天武天皇六年六月壬辰朔、乙巳、大震動、
天武天皇七年十二月癸丑朔、是月、筑紫國大地動、
天武天皇八年冬十月戊辰朔、戊午、地震、
天武天皇八年十一月丁丑朔、庚寅、地震、
天武天皇九年二月丙午朔、癸亥、如鼓音聞于東方、
天武天皇九年六月甲辰朔、辛亥、灰零、
天武天皇九年九月酉朔、乙未、地震、
天武天皇十年三月庚午朔、庚寅、地震、
天武天皇十年六月己亥朔、壬戌、地震
天武天皇十年冬十月丙寅朔、癸未、地震、
天武天皇十年十一月丙申朔、丁酉、地震、
天武天皇十一年春正月乙未朔、癸丑、地動、
天武天皇十一年三月甲午朔、庚子、地震、
天武天皇十一年秋七月壬辰朔、戊申、地震、
天武天皇十一年八月壬戊朔、癸酉、大地動、
天武天皇十一年八月壬戌朔、戊寅、亦地震、
天武天皇十三年冬十月己卯朔、壬辰、逮于人定、大地震、
天武天皇十三年十一月戊申朔、庚戌、土左國司言、大潮髙騰、海水飄蕩、
天武天皇十四年三月丙午朔、是月、灰零於信濃國、草木皆枯焉、
天武天皇十四年夏四月丙子朔、己卯、紀伊國司言、牟婁湯泉沒而不出也、
天武天皇十四年十二月壬申朔、辛巳、自西發之地震、
朱鳥元年春正月壬寅朔、庚申、地震、
持統天皇即位前紀朱鳥元年十一月丁酉朔、癸丑、地震、
十三年の白鳳地震の前後、記録に残っているだけで、これだけの地震がある。
時の、天武天皇、持統天皇が、この地震・津波を、どう感じたか? 自分が天皇になったつもりで想像していただきたい。
いったいどれほどの精神的プレッシャーの中で生きていたか。
当然、これは「神の祟り」と認識していたはずである。また記録にないまでも「その神の正体」と「祟る理由」を必死に探っただろうことは容易に想像できる。
ただ、この時代に、天武天皇、持統天皇は、結論として、この呪われた四国を封印し、島外へ遷都する決意を固めた。この決定は占いによる可能性が高い。
科学的に地震のメカニズムを知る我々には「復興」の文字が頭に浮かぶが、当時の天子としては、この地での治世には、もはや「絶望」するしかなかったのだ。
ここで、当時の天皇や重臣たちの気持ちになって想像してみよう。
彼らは地震と津波発生の構造を知らない。不思議に思ったはずだ。
何故、四国で讃岐だけ津波の被害がないのか?と。
阿波・土佐・伊予西部は大打撃だが、讃岐には津波が来なかった。
何故だ?
彼らの結論は明白だ。
仁徳天皇である。
和名抄で確認できる「難波」地名は、全国で現愛媛県松山市の北部と香川県さぬき市津田町の2箇所のみだ。
それ以前、大阪に難波はない。
この2箇所の難波はつまり、四国瀬戸内の東西、白鳳地震での被害をまぬがれた地域だ。周辺地名もそのままコピーされている。
これを偶然と思うわけがない。
この地域を南海トラフ巨大地震の被害から守ったのは 仁徳天皇の徳 だったのである。
少なくとも、当時の天皇家はそう考えた。
だから、大雀命は後世「仁徳天皇」と諡(おくりな)されたのである。
そして、その治世は徳に溢れていた、と特段美化されることとなった。
大山古墳が仁徳天皇陵であるというのは、宮内庁によれば江戸時代の朝廷の言だという。『延喜式』には「百舌鳥耳原中陵」と記述され、和泉国大鳥郡に所在し「兆域東西八町 南北八町 陵戸五烟」とされており、これに由来するのかもしれない。
大山古墳の被葬者は、現在では不明とされることが多い。理由は、考古学的な矛盾によるものである。大規模古墳の築造理由についても不明のままだ。王権の権威・財力を誇示するためだと言われることが多いが、特にそれらしい人物を特定できない。
特別に大きい古墳については、もっと宗教的意味合いが大きいのではないか?
肝心なのは、平安時代の朝廷において、この古墳が仁徳天皇のものと認識されていた、という点である。現実的にそれが正しいかどうか、という話ではない。
はっきりと記録に残る大津波による国の崩壊。
都に近い海沿いの大山古墳を仁徳天皇陵とするならば、畿内の都人たちにとって期待できる大いなる効果がある。
「魔除け」「祟り封じ」である。
白鳳地震を引き起こした 祟れる神 に、都人たちは「ここに仁徳天皇が坐す」と宣言したのだ。