鳥の一族と玉依姫 Awa Ancient History

空と風(阿波古代史之研究)

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【唯】はもと鳥占を示す字である。[説文]に「諾するなり」とあり、唯諾応答の語とする。字は祝詞を収める器の形である【口】と【隹】とに従う。祝詞を奏して隹(とり)の動きを見、神意を察する。神意の示すところは「唯(しかり)」であり、神意にはひたぶるに従うべきものであるから、「唯一」の意となる。 ~ 白川静

 

鳥の一族と玉依姫 3 天村雲命

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式内社 阿波國麻殖郡 天村雲神伊自波夜比賣神社 

 

awanonoraneko.hatenablog.com

スマホでは画面を横にしてお読みください。

 

前回、神武天皇妃・阿比良比売の出自について、古事記に、

坐日向時、娶阿多之小椅君妹、名阿比良比売

との記された、その「阿多之小椅君」とは、天村雲命であると書きました。

『大同本紀』逸文及び『『豊受大神宮禰宜補任次第』』に、度相神主等の祖・天村雲命が皇御孫(すめみまの)命より、天二登命、後小橋命の別名を賜った、との記述があります。

日本書紀』においては、その「吾田君小橋」について

其の「火闌降命」は、即ち吾田君小橋等が本祖也

とあります。

及(また)将帰去(かへりいなむとし)、豊玉姫天孫(あまつみこ)に謂(まを)さく、「妾(われ)已(すで)に娠(はらみたる)矣(や)、当(まさ)に産(う)まれむとするも不久(ひさしから)ず。妾(われ)必ず風(かぜ)涛(なみ)急峻之(けはし)日を以(も)ちて、出で海浜(うみへ)に到らむ。我(わが)為(ため)に産室(うぶや)を作りて相(あひ)待(ま)つことを請(ねが)ひまつる」とまをす。


彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)已(すで)に宮(みや)に還(かへ)りて、一(もはら)海神(わたつみ)の教(をし)へに遵(なら)ひき。
時に兄火闌降命(ほすそりのみこと)、既(すで)に厄困(くるしび)を被(み)たり、乃(すなは)ち自(みづか)ら罪(つみ)に伏(ふ)し曰(まを)さく、
「従今(いまより)以(もて)後(のち)、吾(あれ)汝(なが)俳優(わざをき)の民(たみ)と将為(なりまつらむ)。請(ねが)はくは恩(めぐみ)を施(ほどこ)して活きまつらしめたまへ」とまをして、於是(ここに)、其の所乞(こひまつる)隨(まにま)に遂(つひ)にこれを赦(ゆる)したまひき。その火闌降命は、即ち吾田君小橋等(ら)の本祖(もとつおや)なり。

 

彦火火出見尊」は、『記』の「火遠理命」(ほおりのみこと=山幸彦)。

「火闌降命」と別表記「火酢芹命」(ほすせりのみこと)は、『記』では「火須勢理命」(ほすせりのみこと)と記されますが、『紀』に記される火闌降命の物語は『記』では、火須勢理命火遠理命の長兄である「火照命」(ほでりのみこと=海幸彦)のものとなっています。

つまり、吾田君小橋=火闌降命=火照命(海幸彦)=天村雲命。

 

邇邇芸命火遠理命鵜葺草葺不合命神武天皇
    |
     → 火照命(天村雲命) → 阿比良比売 

 

阿多之小椅君妹。古代の「妹」には指し示す対象に幅があり、また記紀編纂の時代より数百年前の出来事の伝承でもあり、曖昧さは排除できないものの、仮に同腹(はらから)の妹だとした場合、神武天皇は自分の祖母世代の女性を妻にしたことになります。

従って、現実的に考えるならば、①阿比良比売は「天村雲命の母親違いの妹」、より現実的には「天村雲命の娘」の一人でしょう。一夫多妻制のため、神武天皇と同世代の娘がいても不思議ではないからです。また、古代の氏族では先代の後を継いだ息子が同じ名を襲名することがあるため、鵜葺草葺不合命と同世代の二代目・天村雲命がいた可能性もあります。

※ 後裔の度会氏系図では、類似した名の「天御雲命」の子が「天牟羅雲命」で、その孫が伊勢国造の「天日別命」となっています。

 

さらには、火照命が、弟・火遠理命に「王位を譲り」、その「火遠理命の血筋を支えてゆく」ことを誓った、という経緯を考えるとき、神武天皇を妻として支えるために我が血を継ぐ阿比良比売を嫁がせた、と考えることの自然さがあります。

また、『 先代旧事本紀 』には、阿俾良依姫(あひらよりひめ・あひらいひめ)は「天叢雲命の妻」とあり、この姫を阿比良比売と同一人物と見る向きから、同様の伝承を元に『記』においても「阿多之小椅君の(妹)」という人物表現がなされたのかもしれません。もちろん、阿俾良依姫と阿比良比売が同じ女性とは限りません。

 

この天村雲命を祀る延喜式内社もまた、阿比良比売と同じく、阿波国にのみ鎮座するのです。

おそらく、歴史の通説に思考が染まった人々は「天村雲命を祀る神社」は他にもある、と考えるのでしょう。阿波国でのみ神話の主要神を祀る式内社が他にも複数あるのですが、それぞれの神をお祀りする神社として各種の歴史本やサイトで紹介されるのは常に他国の社ばかりです。

「神社」というのは通称で、正確には「社(やしろ)」。神社名というものは「◯◯+神社」ではなく、「◯◯神+社」なのです。つまり、神の名がそのまま社名となっているのが神社本来の姿です。この神霊が分祀されたとき、元社との混同を避けるため勧請先では「その神の別名」を冠した社名や、「分祀先の地名」を冠した社名とするのです。

(その代表格が「◯◯坐」神社)

 

さらにもう一坐の御祭神「伊志(自)波夜比賣」は、信濃諏訪地方で「伊都速比売」と呼ばれ、

建御名方命の孫にあたる出速雄命(いづはやおのみこと)の女であり、天村雲命の妃 」~『 大日本史神衹志 』
信濃諏訪系に 建御名方命の御子 出速雄命の女に 出速姫(いづはやひめ)命 あるは、伊自波夜比賣(いじはやひめ)神に由あり 」~『 大日本地名辞書 』
とあり、「建御名方命」の孫(または曾孫)で、天村雲命の妃 としています。
建御名方命の孫」が妻であったとするならば、やはり二代目の天村雲命がいた可能性が一気に高まります。建御名方命の兄・事代主命の娘が、神武天皇大后・伊須気余理比売だからです。二代目がいた場合、その天村雲命は、事代主命建御名方命と同世代になります。平均寿命を約50年・成人を15~6として、一夫多妻制。40代で10代の娘を妻にする感覚でしょうか? もう一世代離れる解釈には無理があります。
 
建御名方命を御祭神とする式内社「多祁御奈刀弥神社」も阿波国に鎮座し、最近では有名な話となりましたが、社伝によれば、信濃諏訪郡「南方刀美神社」(諏訪大社)は、宝亀10年に当社から移遷された社となっています。
江戸時代の『阿府志』には、
 
多祁御奈刀弥神社
諏訪に在り、諏訪大明神也。大己貴命の御子也。
御母は「阿波の高志の沼河姫天水塞比売」なりと云えり。
崇神帝の朝に素都乃美奈留命を高志の深江の国定に定む。
其の所、南海の内に「美奈刀(みなと)」生まれ給ふ。
此の御名方命は、即ち「阿波国の諏訪の里の諏訪の神」也。
中略
社伝記ニ、代光仁(こうにん)帝(第四十九天皇・709~782)ノ御宇、宝亀(ほうき)十年(779)
信濃諏訪郡 南方刀美神社名神大阿波国名方郡諏訪大明神ヲ、移遷シ奉ル
とあり。
 
と記されています。
 

ところで、天村雲命の別名の一つに「天五多底(射立)命」「あめの(いだて)のみこと」があります。式内社 天村雲神伊自波夜比賣神社が鎮座する阿波國麻殖郡の郷名が「射立郷」でした。また、天村雲神社の論社は二社ありますが、「村雲」、明治期までは「小橋」の字名がありました。

 

同じく「射楯神 伊達神 因達神」(いだて)を別名とする神が、素盞鳴命の御子である 五十猛(いそたける)命です。素盞鳴命が、八岐大蛇を退治して手に入れた剣は「天村雲剣」でした。

五十猛命 の名は『日本書紀』と『先代旧事本紀』に登場し、『古事記』における「大屋毘古神」と同一神とされます。

 

日本書紀』 卷第一 第八段第四

 

一書曰 素戔嗚尊所行無状 故諸神 科以千座置戸 而遂逐之 是時 素戔嗚尊其子五十猛神 降到於新羅 居曾尸茂梨之處 乃興言曰 此地吾不欲居

遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯 時彼處有呑人大蛇 素戔嗚尊 乃以天蠅斫之劔 斬彼大蛇時斬蛇尾而刃缺 即擘而視之 尾中神劔 素戔嗚尊曰 此不可以吾私用也 乃遺五世孫天之葺根神 上奉於天 此今所謂草薙劔

五十猛神 天降之時 多將樹種而下 然不殖韓地、盡以持歸 遂始自筑紫 凡大八洲國之内、莫不播殖而成青山焉 所以 稱五十猛命 爲有功之神 即紀伊大神是也

 

一書曰 素戔嗚尊曰 韓郷之嶋 是有金銀 若使吾兒所御之國 不有浮寶者 未是佳也 乃拔鬚髯散之 即成杉 又拔散胸毛 是成檜 尻毛是成柀 眉毛是成櫲樟 已而定其當用 乃稱之曰 杉及櫲樟 此兩樹者 可以爲浮寶 檜可以爲瑞宮之材 柀可以爲顯見蒼生奥津棄戸將臥之具 夫須噉八十木種 皆能播生 于時 素戔嗚尊之子 號曰五十猛命大屋津姫命枛津姫命 凡此三神 亦能分布木種 即奉渡於紀伊也 然後 素戔嗚尊 居熊成峯 而遂入於根國者矣棄戸 此云須多杯 柀 此云磨紀

 

先代旧事本紀』 巻第四 地祇本紀

 

素戔烏尊其子 五十猛神 降到於新羅曾尸茂梨之處矣 曾尸茂梨之處 纂疏新羅之地名也 按倭名鈔高麗樂曲有蘇志摩利 疑其地風俗之歌曲乎 乃興言曰 此地吾不欲居

遂以埴土作船 乘之東渡 到于出雲國簸之河上與安藝國可愛之河上所在鳥上峰矣

(中略)

素戔烏尊居熊成峰而遂入於根國五十猛神天降之時 多將八十樹種須噉子樹種而不殖韓地 盡以持歸 遂始自筑紫 於大八洲之内 莫不殖播而成青山矣

所謂五十猛命 為有功之神 則紀伊坐大神是也

一説曰 素戔烏尊之子 號曰 五十猛命大屋姫命抓津姫命 凡三神 亦能分布八十木種 則奉渡於紀伊 及此國所祭之神是也

素戔烏尊 此尊與天照太神共誓約(中略)次 五十猛命 亦云 大屋彦神大屋姫神抓津姫神 已上三柱 並坐 紀伊紀伊國造齋祠神

 

ご覧の通り、五十猛命は素戔烏尊の子であり、その片腕として一緒に新羅国に渡り、出雲国へ帰国後、八岐大蛇を退治し「草薙剣」を入手しています。この剣の元の名が「天村雲剣」ということは、このときも、五十猛命は素戔烏尊と行動を共にしており、皇室三種の神器となる神剣の入手にも関係したとともに、五十猛命が天村雲命であったことを明示するものです。

そして一般には、五十猛命は、最終的に紀伊国に「移住」したかのように語られるのですが、事実は上記のように「紀伊國所“坐”大神」「紀伊國所“祭”之神」「紀伊國造“齋祠”神」であり、つまり「現在」、五十猛命は、紀伊国に「神」として「坐」し、「齋き祭られている」、と述べているわけです。

上にも書いた「坐(います)神社」、つまり、何処からか分祀され、現在、紀伊国に神として坐す五十猛命を、国造が祭祀している事実の記述なのです。

 

この『先代旧事本紀』には、伊勢外宮の大宮司・度会氏について「天牟良雲命は度会神主等の祖」と記され、当の度会氏による『神道五部書』所載の外宮の沿革を記した『豊受皇太神御鎮座本紀』にも同様の記載があります。

天村雲命 伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。
阿波國麻植郡座 忌部神社 天村雲神社二座 是也。
 
つまり、度会氏の祖神が天村雲命であり、その本貫地(ルーツ)が阿波国であるということ。そして、天村雲命=五十猛命ということは、紀伊国の五十猛大神もまた阿波國麻植郡天村雲神社の御霊分けである可能性があるということです。

 

この社が、紀伊国一宮・伊太祁󠄀曽神社(いたきそじんじゃ)です。

前回、阿比良比売の記事に書いたように、「アた」=「イた」。

「アタの小椅君」とは「イタの小椅君」。五十猛(いそたける)を(イタける)命ともお呼びし、社名の「伊太祁󠄀曽神」もこの呼び方が由来であるという説がありますが、このように見れば、「伊太」は、阿多の小椅君こと天村雲命が「アタ(イタ)の君」であったことの関連であると見ることができます。

 

出雲(島根)の「阿波枳閇委奈佐比古(あわきへわなさひこ)命」が、阿波国の「和奈佐意富曽(わなさおうそ)神」からの分祀「枳閇」であると言われるように、伊太祁󠄀曽神は、阿波国の伊太神(天村雲命)の分祀「祁󠄀曽」という名乗りなのかもしれません。

 

「意富曽」「祁󠄀曽」。「曽」は「重なる」の意であり、「意富」と同じく「祁󠄀」は「おおいに」の意があります。神威の高さゆえ「各地に分霊される神」なのでしょう。

 

ここで一点、疑問が生じます。

「天村雲命=五十猛命」である可能性は、極めて高いのですが、上記のように五十猛命は「素戔烏尊の子」です。

そして、「天村雲命=火照命」ですから、その父は天孫邇邇芸命」です。

 

この矛盾を前に、全ての同様の考察は沈黙してしまいます。

はたして、そうでしょうか? やはり、天村雲命と五十猛命は別人なのでしょうか?

 

 

※ 参考資料

『度会氏系図

神皇産霊尊ー櫛真乳魂命ー天曽己多智命ー天嗣命ー天鈴杵尊ー天御雲命ー天牟羅雲命

『海部系図

火明命ー天香語山命天村雲命(『勘注系図』亦名・天五十楯天香語山命

先代旧事本紀

饒速日尊ー天香山命(天降り以後の名は手栗彦命または高倉下命)

田村神社』(讃岐国一宮)御祭神

倭迹迹日百襲姫命 
五十狭芹彦命 
猿田彦大神 

天隠山命 (別名・高倉下命)
天五田根命 (別名・天村雲命) 

新撰姓氏録

右京神別 天神 額田部宿祢 明日名門命三世孫天村雲命之後也

 

※上に記したように(この神に限った話ではありませんが)、すべての伝承や系図が一致するということはなかなかありません。したがって、それらの史料は参考にしつつ、合理性・整合性を重視して謎を解かなければいけません。

史料から分かることは、どうやら「天村雲命」「天香語山命」「高倉下命」「天射立命」「五十猛命」が同一人物らしいということです。

 

『海部系図』に「天香語山命ー天村雲命(亦名・天五十楯天香語山命『勘注系図』)」とあり、二代目の天香語山命が天村雲命だとするのですが、天香語山命は「官名(役職名)」の類だったのかもしれません。


先代旧事本紀』天神本紀によれば、饒速日命が天降るおり、防衛(ふさぎもり)として随伴した32人の中に、天香語山命と天牟良雲命の名が別にあるため、合わせ見ると、その後この名を襲名したように見えます。