鳥の一族と玉依姫 Awa Ancient History

空と風(阿波古代史之研究)

鳥の一族と玉依姫 1 神武天皇

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神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれひこのみこと)と其の伊呂兄(いろせ)五瀬命(いつせのみこと)二柱、高千穂宮に坐(いま)して議(はか)りて云(のたま)ひく、「何地(いづく)に坐せば、天下(あめのした)の政(まつりごと)を平(たひら)げ聞看(きこしめ)すや。猶(なほ)東(ひむかし)へ行かむと思ふ」とのたまひき。

御毛沼命(とよみけぬのみこと)、後の神倭伊波礼毘古命神武天皇)による、この所謂「神武東征」と呼ばれる軍事行動の「真の意味」は何か?

これが分からなければ、日本の古代史の謎は解けません。通説に言われる「南九州を発し畿内を制圧する」という物語は、神話としてのストーリー、または大いなる誤解です。 史実がどこにあるのか? いきなり答えを書いても誰も信じることができないでしょう。それは、この『鳥の一族と玉依姫』を読み進めることでのみ、答えを得ることができるでしょう。

ここではヒントだけを書くことにします。上の豊御毛沼命のセリフは「都を東の地に求める」という意味ではありません。

「天下を治めるためには何処の地を抑えるべき(坐せば)か?」を兄と協議し、それが

「東」にある。と結論づけたということです。

この場合の「東」には、二通りの意味があります。

① 今いる場所から見て「東」。

② それぞれの土地(地方・地域)において、位置的に「東」。

です。

同じじゃないか?、と思われるでしょうが、必ずしもそうではありません。実例をあげます。私の両親は元々同じ姓でした。両家は徳島県西部の同じ町内にありましたが、それぞれの位置関係から、便宜上、父の実家を「東」母の実家を「西」と我々は呼びました。私の生家は母方の家でしたので、父方祖父母に用があるときは、母から「東へ行ってこい」と言われました。これは広義には①に当たります。 しかし、その父の実家よりも更に東、例えば徳島市に出かけたときも、帰りにこの家へ寄るときは、東→西の移動ですが「東へ行く」と言うのです。これは②になります。②は「方向」を表しているわけではないからです。

「猶(なほ)東へ行かむ」を「更に(もっと)」東へ行こう、と読む人がほとんどなのでしょうが【猶・尚】には、もう一つ、
「事情・状態が変わったにもかかわらず、相変わらず。重ねて。やはり」という意味もあります。

何があろうとも絶対に、やはり、この東の地を抑えておく必要があった。はっきり答えを書けば「取り返しに行った」のです。その「東の地」とは何処なのか? 残念ながら、後の大和国ではありません。

 

古代史の謎を解くには、頭を柔軟にしなければなりません。ついでにもう一点、謎解きの重要なポイントを書いておきます。上の古事記の文章では、書き出しが「神倭伊波礼毘古命」となっていますが、これが古事記記述の一大特徴です。

この名は、豊御毛沼命が那賀須泥毘古に勝利し、邇藝速日命から譲位を受けて即位した初めての統一王(神武天皇)としての名告りです。ところが、それ以前の物語を記すときにも、時間をさかのぼってその名を使用しているわけです。これは敵の那賀須泥毘古もまた同じで、その別名を登美能那賀須泥毘古・登美毘古と古事記は記しますが、日本書紀によれば、この「登美」は、那賀須泥毘古軍制圧に貢献した金鵄にちなんで那賀須泥毘古の死後に付けられた「那賀」邑の別名です。古事記では、このように人名・地名において時間軸を無視した記述をしていることを頭に置かなければなりません。

たとえば、阿波説においても、また九州説においてでさえ、豊御毛沼命が出立した「日向」とは現在の宮崎ではない、という指摘がなされます。何故かならば、この日向という国の命名は、景行天皇が当地行幸のさい『この国は、直に日出ずる方に向けり』と述べたことに由来する、と日本書紀景行紀十七年条に記されているからです。つまり、神武天皇の御世には日向なる国名はまだ存在しなかったのです。

しかし、上で見た古事記記述の特徴を鑑みれば、その国名を時代をさかのぼって使っただけ、ともいえるわけです。「神話」とは「史書」とイコールではありません。たとえ元となる史実があったとしても、それを神話として描くときには様々な脚色が加えられます。その一つが「舞台設定」です。古事記編纂者は、明らかに、この日向を南九州と「読めるように」書いた、またはその時点ですでに「そう誤解していた」と考えられます。


さて、神武天皇の物語には、非常に不可解な点が一点あります。そこにセンサーが反応しないから、何も疑問に思わないのです。それは、豊御毛沼命の后、阿比良比売(あひらひめ)のことです。

彼女は、若き豊御毛沼命が愛して妻にした女性。多芸志美美命・岐須美美命という男子も儲けています。その後、初代天皇に即位したと同時に、皇后(大后)になるのが必然です。ところが、豊御毛沼命天皇即位後も彼女を大后に立てません。

 

ご存知のように、大后には、後に出会う比売多多良伊須気余理比売を当てます。これを「男女のことだから色々あるのだろう」程度に読み流していては、永遠にその秘密・意味に気づくことができません。「なぜだろう?」と思考してみる必要があるのです。

 

この阿比良比売を祀る神社は、全国で阿波国板野郡のみに鎮座します。

式外社」の「国史見在社」で、その国史初見は以下の通り。

日本三代実録貞観14年11月29日乙未条(872)

授、丹波国従四位下出雲神従四位上従五位下阿当護神従五位上正六位上奄我神従五位下
阿波国正六位上伊比良咩神。船尽比咩神並従五位下

 

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阿波国板野郡 伊比良咩神社

 

御祭神はもちろん、自然神でも架空神でもなく実在した女性。古代、人物を神として祀るのは全てその子孫です。何故、神武天皇の最初の后が日向国大和国ではなく、阿波国で祀られるのでしょうか? 当然、彼女の後裔が阿波国にいたからです。

この御后はどのような女性なのでしょうか? なぜ彼女は大后になれなかったのでしょうか?

全ては結果ありき。最初から、大后は伊須気余理比売と決まっていたのです。

実は「誰が大后にふさわしいか?」ではなく「誰の子を跡取り(二代天皇)にするべきか?」が、王家の皇后選定理由だったのです。

 

そして、このブログタイトル「鳥の一族」こそが、その「王家」なのです。